寿命がきて、命が尽きた際には、お通夜や葬儀を経て火葬場に故人を移動させ、骨を埋骨することが、現在の日本では一般的であるように思うのです。
それは、腐食や衛生面でも、これから生きる人にとって、故人との別れの儀式など色々なことでヨシとされていることなのでしょう。
そこに宗教がどれくらい介在しているのか、いささか自覚がない私です。と、いうのも、この国以外で暮らした経験がない貧弱な思考だからでしょうか。
共に暮らしてきた人の死を悼み、そして、これから生きていく私たちの幸せを願いつつ、死者を弔うということは、動物でも似たような行動をしているようにも見えます。自然な感情と行動だとも思えます。
そして、群れをなして暮らしている私たちが繁栄するために衛生的であったり、習慣であったりすることに、宗教が関わってきているようにも思えてくるのは、加齢の所為でしょうか。
人は命を授かった以上、必ず「死」は訪れるのです。その「死」に対しての扱いであったり、命あるこちら側の感情の扱いであったりと、何らかの理由をつけることに効果があるのが宗教であると、個人的な意見を持っているのです。
先住民の暮らしの中にあった死者との別れのやり方を支配者側の人から半、強制的に言語はもちろん、習慣まで否定され強制されてきた地域は地球上のいたるところにあるとも思えるからです。
どんな宗教を信仰しようと、自由であると、この国で暮らしている私は思えるのだけれど、この思想が許されない地域も世界には存在しているのですからね。